Grüezi 100号記念インタビュー(Altdorfから25年)

Altdorfから25年

今回は、日本語新聞「グリエツィ」でお馴染みの野嶋篤さんにお話を伺いました。

(写真はグリエツィ第1号の表紙)

野嶋さん、100号の発行おめでとうございます。

100号までの道のり、25年ということで本当に長い間続けてこられて、まずは率直に感想をお願いいたします。

野嶋さんありがとうございます。正直言って、こんなに長く続けられるとは思っていませんでした。いろんな偶然が重なってここまで続けられたのですが、平凡な言い方をしますが、「継続は力」を実感しています。

(1号から100号までのグリエツィ)

 

私がグリエツィを最初に手にしたのは、1999年の冬くらいだったかと思います。その時は、スイスに短期で滞在していた時で、日本食材店かレストランでグリエツィを発見しました。学生時分、北米に1年滞在した際、その街にも日本人コミュニティがあり、同様に日本語新聞がありました。まだスマホはおろか、インターネットもネットカフェでメールをチェックするような時代です、自分のパソコンを持っている人はほとんどいませんでしたので、日本語新聞は当時から貴重な情報源でした。

この日本語新聞グリエツィをはじめられるきっかけは何かあったのでしょうか?

野嶋さんフランス滞在8年(19831990年)を経て、1991年の始めに一度日本に帰りました。当時付き合っていたスイス人女性と一緒でした。彼女とは日本で結婚し、10年後に離婚することになりましたが

日本では、生活の糧を得るために大阪のAllance Française d’Osakaでフランス語を教えていましたが、6年後の19971月末に、彼女の出身地、ウーリ州アルトドルフに帰ることにしました。スイスに来て、仕事を探したのですが、なかなか見つからず、なかなか現実は厳しく、スイス人の妻の方の仕事探しを優先し、私は主夫という形でスタートしました。

主夫をしながらでもできる仕事をしたいと思い、スイス在住の日本人コミュニティー向けの生活情報誌のようなものを作ってみたいと漠然と考えていました。新聞づくりは若い時から好きで、学校のガリ版刷りの新聞や壁新聞から始まって、職場新聞、労働組合青年部の新聞などの編集経験もありました。その思いと計画を大阪でフランス語の生徒だった女性に話をしたところ、「お手伝いできるかもしれませんよ」という話になりました。

その女性は広告代理店に勤めていて、ミニコミ誌などの編集経験もあるとのことで、急速に具体化しました。私がスイスで取材し、写真を撮り、必要な材料を日本に送る。そして、その広告代理店側が編集とレイアウト、印刷までを担当してくれるという話になったのです。当時、その広告代理店はヨーロッパからの情報を収集したいと考えていて、私がその窓口になることで、Give & Take の形でスタートした訳です。

 スタートはこんな形でした。

 その2年後には、この広告代理店とは袂を分つことになり、3年目以降は、取材から原稿書き、編集、レイアウト、印刷入稿まで、すべて一人でするようになりました。移行してすぐは、レイアウトも拙い上、すでに8ページ立てだったのを、4ページに戻すなど、存続自体が微妙な時期を経ました。その時点から、読者の皆さんに寄付(購読料に相当)を呼びかけるようになり、安定発行の足掛かりになったと言えます。

1998年当時の編集方法

1998年当時ですが、その頃は日本語で原稿を準備するのに、パソコンで編集したのでしょうか?

野嶋さん:当初、日本語の入稿、レイアウト作業などは、大阪の広告代理店でやってもらっていたのですが、前述の通り袂を分つことになってからは、自分でMacを使い日本語をうちました。ただ、印刷会社にデータを出した際に、日本語が文字化けする問題などが生じて、対応を迫られました。今ではそうした変換の問題は解消していますが、当時は少し苦労した覚えがあります。

また、その言語の問題を解消するために、当時からイラストレータを使って編集しています。現在は、もちろん日本語の文字化け問題は無くなり、雑誌の編集等にはインデザイン等の優れたソフトウェアもありますが、日本語新聞グリエツィでは、今でもイラストレータで編集しています。

印刷会社も地元のAltdorfですか?

野嶋さん:はい、当時から今日まで、同じ会社でお世話になっています。現在の日本の印刷会社がどうなっているのか詳しくはわかりませんが、そこの印刷会社では、常に最新の機器を揃えていて、最先端を行っている感じがします。

スイス各地のネットワーク

今ではスイスの日本人人口も、1万1,792人(2021年10月1日時点)と増えましたが、当時はインタビューなどで日本人を探すのも苦労されましたか?

野嶋さんそうですね。あまり苦労した記憶はありませんね。「スイスの日本人」のコーナーは第2号からスタートしましたが、スイスに来て1年の間に、ルツェルン日本人会やスイス日本同好会、在スイス日本人芸術家協会、各地の日本人会の関係者にもコンタクトを取りました。それと、当時では新しかったSwiss Japan Cyber GroupSJCG、井浦氏主宰)というメーリングリストのメンバー登録もしたので、スイス全域に住む日本人、スイス大好きの日本人たちとの情報交換ができました。そのSJCGのあと、私たちでSwiss Happy NetSwippyスウィッピー)も立ち上げ、そこも情報交流の場となっていきました。こうした環境の中で、スタート時点から比較的スムーズにインタビュー候補者は選定できました。

取材にあたり、スイス各地のある日本人会も重要なコミュニティだったのではないでしょうか?

野嶋さんそのとおりです。先ほども話しましたが、ルツェルン日本人会、スイス日本同好会、バーゼル日本人会にはメンバー登録しましたし、チューリッヒ日本人会、チューリッヒ日本婦人会、ベルン日本人会などにお願いして、『グリエツィ』誌の配布にご協力をお願いました。それがとても大きな力になりました

★次のページは、「紙媒体の存在について」